英領ジブラルタルを朝出発し、アルヘシラスからフェリーでジブラルタル海峡を渡った。向かった先は西領セウタ。そのままバスで国境まで移動しモロッコに入国した。3月21日。気が付けば半年以上の月日が流れていた。
きっかけ
スペインでサンティアゴ巡礼をするにはシェンゲン協定の滞在期限である90日を過ぎてしまう。またシェンゲン圏に入るためには3カ月ヨーロッパから離れなければならない。当初の予定ではモロッコをじっくり回った後エジプトに飛び、アフリカ大陸の東側を南アフリカまで縦断するつもりだった。
モロッコで(そろそろエジプト行きの航空券を買わないと…)と思っていたところ、東アフリカはこれから雨季に突入するということを何かで読んだ。
(今、東アフリカに飛んでも十分楽しめないかも知れない…。)
そんなことを考えて悩みに悩んだ挙句進路を南に取ることに決めた。
※何も調べずに西アフリカに行くことを決めたが西アフリカも雨季だし、道路悪いし、移動しんどいしで(多分)東に飛ぶよりキツイ思いをした。
西アフリカというところ
西アフリカ、熟練のバックパッカーでも足を踏み入れることを躊躇うエリア。そんなところに来るつもりは最初はなかった。
西アフリカがバックパッカーから敬遠される理由はたくさんある。
まず、見どころが少ないこと。西アフリカに行ったことがある人ですら西は見どころ何もないよと平気で言う。次に移動がハードな事。実際ギニアの移動はこれまでの人生で一番キツかった。さらにビザが高くて取得が大変なこと。中央アジアのビザ取りは大変だ!そう思っていた時期が僕にもありました。そう…西アフリカに来るまではね。
そして得体の知れない病気が多いこと。2014年にエボラ出血熱が猛威を振るったことは記憶に新しいかと思いますがまさにあのエリアです。僕がギニアコナクリにいた時はシエラレオネでラッサ熱が出た!という話を聞きましたし、コートジボワールにいた時はベナンでコレラが流行って云々という話を聞きましたし、つい最近もニジェールでリフトバレー熱という聞いたこともない病気が流行り始めたなんてメールが大使館から届きました。そうでなくても熱帯熱マラリアが年がら年中猛威を振るっているようなところです。
そんなところに自称ゆるふわ系バックパッカー(異論は認める)が入り込んでしまったらどうなってしまうのか…!というわけなんですよ。
そして訪れた西アフリカ最後の夜
それから月日は流れて2016年9月24日、西アフリカ最後の夜を迎えております。
まさかこんなに長くアフリカにいることになるとは思ってもいませんでした。やらなければならない仕事がちょこちょこあったっていうのもありますが(これはそろそろ告知できそうです)、沈没グセが付いてしまったようです。西アフリカで沈没なんて聞いたことないけど。
※ダカールの日本人宿「和心」でバックパッカーが沈没しまくっているようです。2週間、1ヶ月ザラだとか。とんでもない宿だ!
気づけばアフリカ大陸に上陸して半年以上経っていました。最後の夜なので色々つらつら書き連ねたいと思います。話飛びまくりますがご容赦を。
黒人は怖い!そう思っていた時期が僕にもありました。
西アフリカに来てよかったなって一番思うのは、黒人は怖い!って言う謎の先入観から解き放たれた事ですね。これはホント。僕は基本的に運がいい人間なのでたまたまなのかもしれませんが、思い返してみるとこの半年は結構楽しかったです。
日本やヨーロッパで見るアフリカ人ってガタイがでかくてゴツくて、「お、おで(俺)な…なんかな…」みたいな舌っ足らずっていうのかな、批判を恐れずに言えば脳筋みたいな奴ばっかりってイメージだったんですよ。で、学がなくて頭悪くてずる賢くて悪い怖い奴、みたいな。とにかく黒人が怖かったんですよ。言わないだけでみんなそう思ってるでしょ?
もちろん、これまで2年半以上世界のいろいろなところに行って色々な人と出会って、そういうステレオタイプってほんと無意味だなって、アホだなって、頭では分かっているつもりだったんだけど体がいうことを聞かないのよ。怖いの。どうしようもないの。
それが西アフリカに来たことでなくなった。もちろん、俺にとってのサブサハラがたまたま西アフリカだったってだけで、西じゃなくて東アフリカに行ってもそう感じたのかもしれないけどね。
自分の中での黒人(そもそも黒人って言葉が差別的だと批判されそうですな)観が完全に変わった。それだけでも本当に西アフリカに来てよかったと思う。
西アフリカ諸国は基本的に貧しい。世界でも一際貧しい国が多い。
日本人からしたらカンボジアとかラオスとかインドとか貧しい国って思うかもしれないけど、そんなの比較にならないくらい貧しい。
でも治安が悪いかって言うとそんなことはない。
俺はモーリタニア以南日本大使館がある国は全部行って最新の情報収集に努めたけど、大体どこに行っても言われたのは「この国は基本的に一般治安はいい」って言うこと。もちろん一部治安の悪いところもあるし、夜は危険なところも増える。AQIMやボゴ・ハラムなどのテロ組織もある。それでも基本的に治安はいいんだよ。
ありきたりだけど心の豊かさを感じる。少なくとも日本よりは。
ギスギスしてないし、思ったとおりに行かなくても(ま、しゃーないか)って思えるようなところがここにはあった。人が集まらなくて車が出ない。そんな時(まー何時間か待ってたらその内集まるでしょ)みたいな。日本だったら電車が3分遅れただけで謝罪ものだよね。
「シノワ(中国人)!シノワ!!」とか「チンチョン!(中国人をバカにしている)」とか言われて鬱陶しいことも多いけど、それとおんなじくらい「サヴァ!?(元気!?)」って言われたり人と人の繋がりというかコミュニケーションがある。
ガンビアのバカウという街で怒られたことがある。こっちの人は一度ちょっと話したくらいの間柄でもすごくフレンドリーに話しかけてくる。俺はそういうの結構苦手なので自分からはあまり声かけたりしなかったんだけど、ある時ちっちゃい商店の親父に諭された。「お前は俺がいるのに気づいているのに挨拶もしない!」こっちからしてみたら(そんなん全員に挨拶してたらきりが無いっしょ!)って思うけどその親父の意見にも一理ある。
隣に誰が住んでるかもわからないって言われる日本とは大違いだなって(今思えば確かに働いていた時に住んでいたマンション隣に誰が住んでるかなんて会社の人以外知らなかったわ)。
乗り合いタクシーがある。こっちの人は乗り込んでくると必ず挨拶をする。「ボンジュール・ムッシュー」、「ボンジュール・マダーム」って。エレベーターでもそう(エレベーターなんてほとんどないけどアビジャンの日本大使館に行くのに乗った)。
俺は昔のことは知らないけど日本も昔はこうだったのかもなって思った。なんていうかそういうのも悪くはないなって。
西アフリカは未開の地なんかじゃない
日本で暮らしていると西アフリカの事なんて全く知らなくても問題はない。
実際俺もここに来るまでほとんど何も知らなかった。日本人の中で西アフリカの国と場所を正確に分かる人はどれだけいるだろうか?首都と国旗を正確に分かる人はどれだけいるだろうか?
情報の少ない、世界遺産もあまりないこれらの国々は未開の地のように見えるかもしれない。文化レベルの低い土人が住んでいると思うかもしれない。
実際、何も知らない日本人ではなく、この地を訪れたバックパッカーの中にも、西アフリカは野蛮で未開で文化も何もない、みたいにブログに書いている人もいるくらいだ。
断言する。そんなことは決してない。
確かに西アフリカに高速鉄道はないかもしれない。
確かに西アフリカにコンビニはないかもしれない。
確かに西アフリカにホットシャワーはないかもしれない。
確かに西アフリカはよく停電するかもしれない。
確かに西アフリカは移動が大変かもしれない。
確かに西アフリカではマラリアが蔓延しているかも知れない。
でもだからといって文化が、歴史が無いわけではない。
ここには日本で一般に知られていない豊かで、洗練され、継承された西アフリカならではの文化がある。
俺は感動した。ブルキナファソのチェベレ(ティエベレ)の伝統住居に。
俺は感動した。トーゴ、ベナンにまたがるバタマリバ人の伝統に。
俺は感動した。モーリタニアの茶文化に。
俺は感動した。セネガルの、コートジボワールの料理に。
ここに文化が、歴史が、伝統がないはずがない。
確かにパッと見は未開の地のように見えるかもしれない。
確かに日本人からみたら洗練されていないかもしれない。
だからなんだというのか。
西アフリカには西アフリカならではの、いやもっと細かいレベル、トーゴにはトーゴの、ギニアビサウにはギニアビサウならではの文化がある。いやもっともっと細かいレベル、ウォロフにはウォロフの、モシにはモシの、ロビにはロビの、バタマリバにはバタマリバの文化と伝統と歴史がある。
そのことを、知識としてだけでなく体感として持つことができた。それだけでここに来た甲斐があるというものだ。
再びパリへ
そんなことを思いながら西アフリカ最後の夜を過ごしています。明日、昼のフライトでアディスアベバ経由でパリに飛びます。7か月ぶりのパリ。何でも揃っている先進国の首都。
アフリカの大地に慣れ始めていた俺には逆に少し怖い。
パリではパソコンを修理したり、ケータイを修理したり、ブーツのソールを修理したり(修理してばっかりだな…)、ボロボロになったもろもろを買い換えたりした後、何年も憧れていたカミーノ・デ・サンティアゴ・デ・コンポステーラ、サンティアゴ巡礼に向かいます。
サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからサンティアゴ・デ・コンポステーラまで約780km、フランス人の道を歩くつもりです。ピレネー山脈を越え、イベリアの大地を歩き、サンティアゴ・デ・コンポステーラを経て、恐らく大西洋まで。
また違った旅が始まる。
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