どうも三矢(@hideto328)です。アウシュヴィッツ訪問記その3です。今回は私が戦慄したビルケナウ第二強制収容所を紹介していきます。
実は、今日の記事には1人も人が出てきません。登場人物という意味ではなくて、写真に全く人が写っていないのです。正直言って特に狙ったわけでもありません。
そして、この人が全くいない、という事が、ビルケナウの恐ろしさを際立たせていたのです。
ビルケナウ第二強制収容所訪問記
多くの人は1日でアウシュヴィッツ第一強制収容所とビルケナウ第二強制収容所を回ります。しかし、私が実際に行ってみたところ、すべての展示を見て回るにはアウシュビッツ第一強制収容所だけでも丸1日かかります。
本来はアウシュヴィッツを訪れた同じ日にビルケナウにも行く予定だったのですが、冬季、特に12月は開館時間が非常に短く15時半には閉まるという有り様で、当日中にビルケナウにはたどり着けなかったんですね。と、いうかアウシュヴィッツももっと時間が欲しかった(二度寝してしまった自分が悪いのですが…)。
ビルケナウ第二強制収容所を早朝に訪れる
と、いうことで日を改めてビルケナウを訪れることにしました。
正直、アウシュヴィッツしか周れなかったその日はビルケナウを訪れるためだけに、もう一度交通費と時間をかけてここまで来るかどうかについて悩みました。
それでも、有名な鉄道の引き込み線をどうしても見たかったのと、アウシュヴィッツだけ見てビルケナウを見ないのは、どうなのだろうか、と思い改めて行くことにしたのでした。
結果的に大正解でした(正解と言う表現が的確かどうかは怪しいところですが)。
早朝に訪れたビルケナウは寒さと、寂しさで充満した厳しい大地でした。
電車でビルケナウを目指す
アウシュヴィッツにはバスで行ったので、今回は電車で行くことにします。
電車は早朝クラクフを出てオシフィエンチムを目指します。ヴィエリチカ岩塩坑に行くときにチラ見したことのある車両で、ポーランドっぽくないレトロな感じの車両が魅力的で乗ってみたかったんですよね。この車両。レトロクラシックな見た目とは異なり車内は快適でした(電車は片道8.5ズロティ)。
2時間後電車はオシフィエンチムに到着。オシフィエンチムの駅は可もなく不可もなくな駅でしたが、そこはポーランド、ちゃんとしていました。
駅からビルケナウへは歩いて向かいました。
そしてビルケナウがその姿を現す
歩き出すこと20分、ビルケナウの有名な建物が霧の中から姿を現したときは寒気がしました。
定番カットで写真を撮りつつ中に入ります。
アウシュヴィッツに入る際は荷物検査が結構厳しかったのですが、ビルケナウは荷物検査は全くなく、早朝に着いたせいかスタッフすらいませんでした。
これ入って大丈夫かよと思いながらこっそり中に入ります。
とてつもなく広大なビルケナウ
東京ドーム約37個分の広さがあるというこのビルケナウ第二強制収容所、門をくぐるととてつもなく広いスペースが広がっています。
ナチス・ドイツが証拠隠滅を図って破壊したということもあり、原型を留めている建物の数はあまり多くありません(一度破壊されたのちに博物館のために再建したものもありそうですが、詳細は不明です)。
冬の早朝に訪れたからでしょう、霧が濃くて、非常にイヤな空気が流れています。この空間にいるのは僕一人。
私は朝早起きして早朝訪れましたが、多くのツアーは午前中にアウシュヴィッツ第一強制収容所を回り、午後ビルケナウ第二強制収容所を回ります。
そのため早朝のビルケナウは全く人がいません。その静けさと、うっすらかかった霧がもの悲しさを加速します。
12月のオシフィエンチムはかなり気温が低く、ブーツの下にウールの靴下を履いていても地面の冷たさが伝わってきます。
アウシュヴィッツの博物館で学んだところによると、被収容者はまともな防寒具を持っていなかったはず…。そもそもこの環境で生きていくことなんてできないのです。無理ゲーですよ、無理ゲー。
アウシュヴィッツで買ったパンフレットにもビルケナウ第二強制収容所の方は詳しい言及があまりありません。しかし、敷地内には数々の写真と、英語、ポーランド語、ヘブライ語で書かれた説明があります。
これらの写真は主としてその写真が撮られた場所にあるため当時の情景が眼に浮かんできます。
有名な鉄道の引き込み線を通過して南の区画に進みます。
被収容者はこのような貨車で運ばれてきたのでしょうか…。
被収容者棟のバラックを見学する
この南の区画は主に女性と子供が収容されていた区画。大半は破壊されて廃墟になっています。
レンガ造りの暖房器具だけが残っています。なぜ暖房器具があるのかはよくわかりませんが、燃料の供給はなかったと言われています。
復元されたのか、ナチス・ドイツが破壊しつくせなかったのかわかりませんが、一部かなり綺麗に原型を留めている建物があります。
水たまりがありますがこの日も、その前の日も雨は降っていませんでした。それでもここはこんなにもジメジメしています。湿地の上に造られたということがよくわかります。
このエリアの一部の被収容者棟は中を見学できるようになっています。
恐る恐る中に入ります。
中は暗く、確かに三段になっています。
意外にもこの被収容者棟は床が石で覆われていました。それでも棟内は冬の冷たい空気が幅を利かせています。
大して高さのない建物の中に3段に詰め込まれている為一段一段の高さはかなり低く、ただ寝るだけの空間と言えるでしょう。この低い空間に何人もの人が詰め込まれていたなんて……!
正直、僕はここを訪れるにあたって結構防寒対策をしていきましたが、それでもかなり寒さを感じ、指先はかじかんでいました。真冬には―20℃にもなるというこの地で腐ったわらを敷いただけの寝床で寝るなんて…。
しっかり栄養を取っている健康な成人男性であったとしても間違いなく体調を崩すような環境です。
隣には手洗い場とでもいうべき場所がありました。特筆すべきことはあまりないのですが、
こんな劣悪な環境であるにもかかわらず、石鹸を置く場所が備え付けられていることになぜか異様に感心させられました。石鹸…支給されたのでしょうか?
これは死の天使と呼ばれた、ヨーゼフ・メンゲレが人体実験の被検体として使っていた双子たちが収容されていたというバラック跡地。
こちらは通称「死のバラック」。ガス室送りが決定された被収容者が収容されていたバラックです。ガス室送りが決まっているということもあり、ここに送り込まれたが最後、食料も水も与えられなかったため、ガス室に行く前に多くの被収容者がここで命を引き取ったといいます。
先ほどの被収容者棟は石が床に敷き詰められていましたが、こちらは地面がむき出しです。
破壊されたガス室
被収容者棟を後に西のほうに歩いていくと、悪名高いガス室を備えた複合施設「クレマトリウム」の廃墟が姿を現します。姿を現す、といっても徹底的に破壊されているので、その往時の姿はよく分かりません。
ここは巨大な慰霊碑を挟んで2基のガス室が対になっています。
破壊されたガス室のすぐ脇には小さな慰霊碑が。
ここはガス室で殺され、焼却され灰になった死体が、ばら撒かれた場所なのです。遺灰がばら撒かれた他の場所にもこのような小さな慰霊碑が立っていました。
破壊されているとはいえガス室の跡地は、確かにアウシュヴィッツの博物館で見たモデルと同じ形をしています。
階段の先には、
脱衣所があり、
その先にはガス室が…。
ビルケナウにあるガス室はどれも徹底的に破壊されています。
慰霊碑
2基のガス室の間には慰霊碑が。ここは正面入り口から鉄道に沿って真っすぐ進んだ突き当りに在ります。
何か国もの言葉で書かれた慰霊の言葉。
ビルケナウのさらに奥へ
慰霊碑の奥は林になっています。
林の先には広場が、霧がもの悲しさを強調しています。
ここは焼却炉で焼却しきれなかった遺体が焼かれた広場。
博物館で入所の手続きを追体験する
ビルケナウ第二強制収容所の正面入り口から入って真ん中奥には他の建物と比べて異様に立派な建物が残っています。
ここは鉄道で運ばれ「選別」された被収容者が入所する手続きを行った建物だそうで、博物館になっています。
被収容者はここで私物を没収され、頭髪を剃られ、シャワーを浴びされ、そして唯一の所持品として囚人服を与えられたそうです。
武装蜂起で破壊されたクレマトリウム4
博物館のすぐ近くのガス室の跡地は有名なゾンダーコマンドが武装蜂起し破壊したクレマトリウム4の跡地です。
ゾンダーコマンドとはドイツ語で「特殊部隊」を意味する言葉ですが、強制収容所におけるゾンダーコマンドとはナチス・ドイツによって組織された強制収容所内の囚人による労務部隊。
「選別」で価値無しと判断されガス室で殺害された(殺傷自体はナチスの人間が行っていた)被収容者の死体処理を担当していたゾンダーコマンドもまた、機密漏えいを避けるため数か月ごとに殺害されていました。
この蜂起によってクレマトリウム4を破壊することには成功しましたが、蜂起自体はすぐに鎮圧されたとのことです。
より劣悪な木造のバラック
私がビルケナウ第二強制収容所で最後に訪れたのが木造のバラック。
いかにも急造されたかのようでレンガ造りのバラックと比べて大分チャチな作り。
隙間風が入りここで暮らすのはより厳しいだろうなと感じました。
行きたくないけど行かなきゃいけない場所
私は世界には行きたくなくても行かなきゃいけない場所があると思っています。
日本だったら、原爆ドーム。東南アジアだったらプノンペン(カンボジア)のキリングフィールドとトゥールスレン博物館、ホーチミンシティ(ベトナム)の戦争証跡博物館など。
そしてその行きたくなくても行かなきゃいけない場所の最たる例がここ、アウシュヴィッツ・ビルケナウだと思います。
これまで本やネットで読んだこと、アウシュヴィッツの展示に書いてあることをビルケナウに行くと肌感覚として、自分の体験として持つことが出来ます。
プノンペンのキリングフィールドでも感じたのですが、なぜ人は他人に対してここまで残酷になれるのでしょうか。彼らにとってはユダヤ人は人ではないのか?人でなかったとしても普通はここまでできないのではないか。人間が持つ闇の深さを痛感しました。
アウシュヴィッツ・ビルケナウはここに来て良かった、と言える場所ではありません。それでもここに来て、感じたことは私の人生にとって非常に大切なことだと思います。
コメント