「アウシュヴィッツ・ビルケナウ -ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)-(Auschwitz Birkenau -German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945))」はポーランド第三の都市で南部の中心地であるクラクフからバスや電車で日帰りで訪れることができます。
アウシュヴィッツとはポーランド南部の街オシフィエンチムのドイツ語読みで、第二次世界大戦中に造られて強制収容所が残っています。
どうも三矢(@hideto328)です。
突然ですが、今日から何回かに分けてアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の概要と私が実際に訪れた訪問記をお届けします。
アウシュヴィッツ・ビルケナウとはどのような場所なのか
私の体験記に移る前に、アウシュヴィッツ・ビルケナウとはどのような場所なのか簡単に勉強してみましょう。
アウシュヴィッツ・ビルケナウはナチス・ドイツによる大量虐殺の歴史を残す遺産で、「負の世界遺産」と言われるものの一つです(ただし、「負の遺産」は世界遺産条約の正式なカテゴリーではありません)。
強制収容所の実態を隠し国際的な批判を避けるために、対外的には「善意によってユダヤ人を保護収容する場所」や「幸福世界」と喧伝されていましたが、その実は、収容者を強制労働させ処刑する場所でした。
アウシュヴィッツはユダヤ人が強制収容された場所としての印象が強いですが、ユダヤ人だけでなく、政治犯やロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者や同性愛者など様々な人が収容されていました。
第二次世界大戦終戦間際、ドイツは大量虐殺の実態を隠そうとしたのですが、ソ連軍の侵攻が予想以上に早かったため、強制収容所の一部は破壊されずに残っています。
アウシュヴィッツ強制収容所の簡単な歴史
元々アウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツ軍が押収したポーランド軍の兵舎を増改築したものです。1940年に開所した。1941年には最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が作られました。
収容者が増えたことにより1942年にアウシュヴィッツ近隣のブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に第二強制収容所ビルケナウ強制収容所が建設されました。さらに1942年から44年にかけてモノヴィッツ村周辺には三強制収容所モノヴィッツが作られました。
1943年には死の天使と呼ばれた医師ヨーゼフ・メンゲレが着任します。
1944年ゾンダーコマンドによる武装蜂起が起き、ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」が破壊されましたが蜂起はすぐに鎮圧されました。そして、1945年1月にソ連軍によって解放されます。
1947年4月初代所長であるルドルフ・フェルディナント・ヘスがアウシュヴィッツで処刑されました。ヘスが処刑された処刑台は今もアウシュヴィッツ第一強制収容所に残されています。
アウシュヴィッツ。ビルケナウ強制収容所は1979年ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
アウシュヴィッツ第一強制収容所
入り口にはあまりにも有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の文字が掲げられています。
10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」が残っています。
最初のガス室とされる施設(クレマトリウム1)は作られた後に強制収容所管理のための施設となり、戦後、ガス室として復元され今は中を見学できるようになっています。
ビルケナウ第二強制収容所
アウシュヴィッツから約3キロ離れたところに作られました。二つの強制収容所間にはバスが走っているため容易に移動できます。
総面積はアウシュヴィッツ第一強制収容所より遥かに広大な1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)。
アウシュヴィッツ強制収容所の象徴のようによく使われる、鉄道の引き込み線があるのもこの収容所です。広大な敷地は湿地帯で、その上に満足な基礎工事もなく粗末なバラックが大量に建てられていました。バラックには床がなく、寝床は腐った藁が敷かれた三段ベッドで、そこにギュウギュウ詰めで収容されたといいいます。
敷地内には送られてきた収容者が入所にあたっての手続き(頭髪をそり落としたり、消毒をされたり、囚人服を与えられたり)が行われた場所があり博物館になっています。
ガス室
被収容者の効率的な殺害の手段として「ガス室」が作られました。
強制収容所に運ばれてきた被収容者は到着してすぐに「選別」が行われ強制労働できるかどうか、人体実験の被検体に適するかどうかが判断されました。そしてどちらにも該当しない被収容者はガス室に連れられ、殺されていった。
ガス室に連れて行くにあたって「シャワーを浴びる」と嘘をつき、ガス室に連行したということです。
人体実験
1943年にアウシュヴィッツに着任したヨーゼフ・メンゲレは死の天使とも呼ばれ、様々な残虐な人体実験を繰り返しました。
ヨーゼフは実験対象である囚人をモルモットと呼び、加圧室に置く、有害物質や病原菌を注射する、血液を大量に抜く、熱湯に入れて麻酔なしで手術をする、様々な薬剤をテストする、死に至るまで凍らせる、生きたまま解剖するなど、囚人達に致命的外傷を与える実験を繰り返した。
ヨーゼフ・メンゲレ – Wikipedia
メンゲレは双子に強い興味を持っていたと言われ、1944年からは双子を意図的に選別し残虐な人体実験を繰り返していたといいます。
当初の実験は身体を比較するだけであったが徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や、人体の様々な切断、肢体や性器の転換およびその他の残忍な外科手術が行われた。他にも、2つの同じ臓器が1つの身体で正常に機能するかを確認するために、双子の背中同士を合わせて静脈を縫い合わせることで人工の「結合双生児」を作ることを試みたが、この手術は成功しないばかりか単に悪性の感染症に罹患させただけだった。
ヨーゼフ・メンゲレ – Wikipedia
人体実験についてより詳しくはコチラ⇒ナチス・ドイツの人体実験 – Wikipedia
殺害された人数
アウシュヴィッツに送られた人数が記録されておらず、ここに収容された人数も、殺害された人数も正確な人数はわかっていません。一説には150万人とも400万人とも言われています。
また、ガス室や過酷な強制労働、栄養失調による衰弱死だけでなく、絶望のあまり、高圧電流が流されていた鉄条網に自ら触れ、自殺する収容者も居たとのことです。
壮絶なアウシュヴィッツを訪問する
アウシュヴィッツの悲しい歴史をざっと勉強したところで次回は私が実際に訪れて感じたことなどを書いていきます。
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